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我が郷中の歴史散策

 川内高校北側の肥薩おれんじ鉄道とJR九州新幹線の鉄路に挟まれた台地に広がる,薩摩川内市国分寺町・御陵下町にまたがる国分寺自治会区域内には,私を歴史考古学徒に目覚めさせた薩摩国府が置かれ,奈良時代以降=律令時代の薩摩国の政治・経済の中心地として栄え,また近世までの数多くの歴史的遺産が残っています。我が郷中(ごじゅ)国分寺自治会内の歴史について,ぜひ多くのを皆さんに再認識していただき,次の世代に確実に伝えて欲しいものです。
 なお,自治会館前の菅原神社境内をスタート地点として,徒歩でも全ポイントを2時間以内でゆっくり散策できますよ。

   (追記:私の父の生家は,東隣の下台自治会ですが,此処には薩摩国分寺跡が。また母の生家は,西隣の風口自治会ですが,此処は藩政時代の薩摩街道が通っていました。)

 

◆Googleマップで国分寺自治会区域内航空写真を
●薩摩川内市が提供する地図サービスから国分寺自治会区域内を
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◎お勧め歴史散策ポイント11選


三國名勝圖會にも描かれています

三國名勝圖會/国分寺天満宮

  天保14年(1843年),薩摩藩10代藩主島津斉興の命により編纂された『三國名勝圖會』(さんごくめいしょうずえ)巻の十三薩摩国高城郡水引の一/佛寺には,我が郷中=国分寺自治会内の名勝地として「護國山威徳院國分寺」(聖武天皇の詔により国分寺町大都に建立された薩摩国分寺(僧寺:金光明四天王護国之寺)は,天正15年(1587年)豊臣秀吉の島津侵攻の戦火を受け消失しましたが,2代藩主島津光久が泰平寺の實秀法印に命じ寛文9年(1669年)に真言宗大乗院の末寺として再興。廃寺は慶応3年(1867年)が描かれています。

 『三國名勝圖會』には,護國山威徳院國分寺   地頭館より丑寅方三十町余,大小路村にあり,本府大乗院の末にして,眞言宗なり,本尊薬師如来,當寺は,聖武天皇の御宇,天平九年,丁丑の歳,天下泰平の御願にて,六十餘州に寺院を建立して,国分寺と號す,常寺は其一なり,時に天皇行基僧正に命して,其事を掌らしめ,行基自作聖観音丈六の像を大講堂に安置せらる,其後弐百式拾餘年を経て,村上天皇の御字,應和三年,発亥の歳,勅願所として,天満宮一坐を爰に勧請し,寺院を重建して,大伽藍とす,是時當寺の天満社は,筑前太宰府の別宮なりといふ,爾来世々天下泰平,異敵降伏の御祓祈,或は天満宮當寺造営修復の 宣旨院旨,或は鎌倉の御教書御下文,或は國司の下知書,挙て數ふべからず,且多くの神領を寄附せらる,延喜式主税式に日,薩摩國正税公廨,各八萬五千束,國分寺料二萬束云々,建久八年,薩摩國圖田帳には,國分寺百四町五段,天満宮七町五畦と見にたり,この天満宮,霊験比ひなき故,尊奉崇敬し給ひしこと,餘社に過きたり,天正十五年,豊関白泰平寺に陣し,村落を放火し,當寺及び天満宮悉く焼亡し,遂に廃せしを,寛文九年,巳酉,六月甘三日,寛陽公泰平寺住持實秀法印に命して,當を再建し,眞言宗大乗院の末となし,薬師を安置して,本尊となし給ひ,日本回國納経所に定めらる,往古は三十三間の金堂ありしとて,其遺址礎石今尚存ぜり,側に二間四面の茅堂あり,今大堂と呼ふ,大なる古佛二躯を安置し,一は観音,一は釋迦像の如し,其観音は,行基自作の像にして,當初大講堂に安置する所ならんといへり,又境内に破瓦多し,瓦陰に布目,及ひ網形の類ありて,尤古製の者と見にたり,此天満神は,日本三天神の一なり,三一天神とは,京都北野紳社,筑前宰府神社,薩州國分寺寺神社なりと記す,今當寺は,新田宮の別當観樹院兼帯せり,
○天満宮,當寺の境内一林阜にあり,神体木造,石磴を設く,年中祭八度,正祭八月廿五日,由緒前文に詳なり,此天神禮験奇特にして,参詣の徒群をなす, 或云天正十五年,豊関白西侵の時,國分左京當社の神像を奉し,鹿児島に来り,その像を家に安置す,画像なりといふ,國分氏は,当邑新田宮執印氏の末裔たり,」
  と紹介されています。


 なお,圖會記述の中で特筆すべきなのは,58段の石段を登った所にある天満宮(菅原神社)は,京都の北野天満宮・大宰府天満宮と並ぶ日本三天神の一つで,霊験が特にあり参拝客が絶えないとあります。(今では,参拝客もめったにないこの神社。受験の神様が祭ってあるのですが,情報があまり知れていないようで,わざわざ東郷町にある臥龍梅で有名な藤川天神にまで出かけて祈願しています。 大いに啓発する必要があるようです。国府・国分寺史研究上からは,国府と国分寺の守護神であり八幡信仰との関係も。)「護国山威徳院国分寺」が建っていた場所には,国分寺自治会員の語らい集いのとしての国分寺自治会館(昭和27年=1952年建設,昭和53年=1978年新築再建)が現在建っています。
※平城遷都1300年記念(平成22年)番組としてNHKテレビで放映された『大仏建立』では,橘諸兄・藤原仲磨呂・吉備真備・玄昉・行基等の歴史上の人物が東大寺大仏建立との関わりを描いていましたが,東大寺は総国分寺の位置付がなされています。



菅原神社

菅原神社

 天神馬場正面の鳥居をくぐり,自治会館前からの58段の石段を登った字杉山の天神山に,我が郷中の氏神さまでもある菅原神社は,祀られ鎮座しておられます。旧呼称では,天満天神宮・国府天満宮・国分天神社とも呼ばれていました。地元では愛着をもって「天神さぁ」と呼んでいます。
 社格は,市内の神社は,新田神社(国幣中社)を除けば無格社が多い中,「郷社」で五級社という高い位置づけがなされています。
菅原神社の58段の石段  祭神は学問の神様の菅原道真公で,薩摩国分寺文書によると創建は応和3年(963年)に村上天皇の勅願所として天下泰平を願い建設されたという歴史のある神社です。旧呼称からもお判りいただけるように国府・国分寺の鎮守の神様でもありました。
 現在の社殿は,昭和46年に建て替えられたものですが,床が高く床下に蟻地獄があった頃(自治会館が建つまでは,この祠で子ども会行事は行われており,子ども会行事=神社周辺の掃除が付きものでしたし,娯楽の少ない昭和30年代前半までは,神社境内の鳥居に白い布を垂らして,巡回映画会も行われていました)の,前の木造建ての祠が,神社の風格が漂っていましたよね。周囲のうっそうと繁っていた大木も台風等で倒木し,神社境内は今では明るくなっています。
 元寇の際は,新田神社とともに異国降伏の祈願所にもなり,北薩一帯に権威を誇った神社でもありました。
国府or国分寺の礎石六月灯の際は子供会員が色とりどりの灯篭を奉納します『勧学祭』で神妙に神前にひざまずく新入学児  なお,前記の「三國名勝圖會」にも描かれています」で昔の賑わいについては触れましたが,朝河貫一博士の英訳で有名な「入来文書」の元享元年(1321年)の項には,社殿は荒廃しているが往時は「2千余連軒,是則天下無双之御廟」と創建当時の賑わいが記されています。
 氏子である国分寺・下台の2自治会で運営委員会が組織され,「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の梅の花が咲き始める2月下旬の日曜日には,2自治会内の小学校に新入学する児童を招いての『勧学祭』が催されています。近年,参拝客で賑わうのは,「勧学祭」の時と,神社役員と国分寺・下台自治会が一緒になって催す,夏の風物詩である夏祭り「六月灯」の時ばかりとなっています。
※神社分類によると,全国で多い神社の3番目が「天神さま」とか。因みに一位は「八幡さま」,二位は「お伊勢さま」,そして四位は「お稲荷さま」の順だそうです。
※石段の数は,この前までは57段でしたが,平成22年(2010年)8月に水道局発注工事として施工されました境内埋設の水道本管撤去工事の際,市道と境内をまたぐように架かっていた太鼓状の橋の一部が境内入口にに放置されたままとなっていましたので,階段の一番下に踏み石として移設して頂きましたので58段となったものです。
 なお,国分寺跡か国府跡を耕作中に出てきたと思われる礎石が,境内に2個放置されていましたので,境内に重機が入ったこの機会にと階段下と自治会館玄関手前の防犯灯・石燈籠の根元に移設し保存していただいています。
幟旗がはためく平成30年の元旦社周囲の清掃奉仕活動 また,平成23年9月28日には,市道脇の菅原神社由来を掲示した看板(平成12年6月設置)の枠が口落ち欠けていたので,参拝される皆さんに菅原神社の由来を,境内に一歩立ち入られた場所でご理解頂けるようにと,今では使用されず,境内出入りの視覚障害にもなっていた自治会掲示板を撤去し,この屋根を有効再利用してと,神社役員と近所の住民の協力で由来看板の移設作業を行いました。
 お正月を前にした平成23年12月最後の日曜日の25日(日)午前中,何時も自治会活動で利用させて頂いている神社境内の清掃奉仕活動への協力参加を「自治会だより」で自治会員に呼びかけ,16名の会員(含む女性会員3名)に参加して頂き,石段から社周囲の枯れ枝・枯草・落ち葉の清掃・焼却処分活動(消防には「火災と紛らわしい煙等を発するおそれのある行為等の届出書」を提出し)を小1時間かけて行い,一年間の感謝の気持ちを。なお,焼却処分した残火の処理には,翌日まで要しました。
 また,お正月の参拝客を迎えるため,12月30日には,神社の役員と自治会の役員で,神社入り口と階段を登ったカ所の2カ所に幟を立てたり,参拝客の足元を照らす照明の配線を行っています。
※平成27年8月25日の朝方襲来した台風15号の瞬間最大風速45㍍の強風で,薩摩川内市内では多数の風倒木被害が発生し,電線切断に伴う停電が長く続きましたが,自治会区域内全体を見渡す天神山にある社の杜の古木も数本が倒木。以前のこんもりとした葉枝は姿を消し,お日様の差し込む空間が拡がった社前となっています。
※雨の日曜日となった平成27年12月6日の南日本新聞の『南風録』に,「学問の神さまとして有名な「天神さま」菅原道真は,雨をもたらす雷の神,農業をつかさどり国を守る神として広く信仰されてきた。道真を祭る神社は,全国で1万を超すといわれる。薩摩川内市国分寺町の菅原神社は住宅街の丘の上にある。南側に家並みが広がり,その中に薩摩国分寺跡の公園がある。緑地の東側は新幹線の高架が走り,スマートな車体が駆け抜ける。古代と現代を取り合わせた壮大な眺めに目を奪われる。8世紀初めに薩摩国が設置され,ここに国府が置かれた。80年ほど後に国分寺が創建され,さらに約200年して国分寺を守護する天満宮が建てられた。いまの菅原神社である。役所があって由緒ある寺社もある。当時の政治,文化の中心地にほかならない─」と,歴史資料館で開催中の「薩摩国分寺への想い」史跡公園開園30周年記念企画展の開催に合わせ,国分寺自治会館裏山の天神山の頂に鎮座しています菅原神社が紹介されていました。

『ふるさと薩摩川内学』の中での小中学生への菅原神社紹介記事平成27年12月6日の「南風録」














神社境内の石塔

菅原神社境内の石鐙籠

 手洗い鉢追善供養鐙籠天保の石鐙籠写真にも苔むした石鐙籠が写っていますが,写真奥の石鐙籠は正徳5年(1715年)乙未年9月吉祥日 大小路町 堀口太郎右門の寄進したものです。それ以外に馬頭観音の横には,天保7年(1836年)丙申中夏孝弟 一対為法印安秀追善と銘のある正徳6年(1716年)に亡くなった「護国山威徳院国分寺」の住職安秀法印のために弟子たちが追善供養のために設置した鐙籠の一部と,天保14年(1843年)癸卯9月9日の銘のある傘部分のない石鐙籠が。祠のすぐ横に置かれている手洗い鉢には,相良庄右門 藤原長年 寛永2年(1749年)己巳10月の銘が。また,新しい鐙籠としては,大正15年(1925年)4月の東水引村(長)の高木正七銘のものも。
 狭い空間の境内には,新しくても85年前。古いものでは295年前と歴史の重さを感じさせる石鐙籠等の石造文化財が置かれています。
 なお,昔,自治会館(公民館)が建設される前の時代=昭和20年代から30年代初めの頃は,もっぱら子ども会活動で高床の木造の祠を利用していました。(「子どもの日」の催しで,祠前の保護者席に向かって歌を歌い,褒美のお菓子をもらった事や,娯楽のない中,鳥居に白布をかけたスクリーンで上映された巡回映画祭を,荷むしろを敷いた席から親子して鑑賞した─の想い出が)
 祠前の境内は岩が露出してデコボコしており,ホウキを用いての掃除=祠を子ども会活動で利用させもらっているお礼のための掃除だったのでしょう?(朝寝して,毎日曜日朝の神社周辺の掃除をさぼったら,罰に神社階段のランニングが先輩達から課せられました!)は,子供心にも大変な作業でしたが,今はセメントや砕石が散布され平坦に整備されています。そして,菅公腰掛の石なんてなかったのですが,今では何処かを真似して腰掛の石がブロックに囲まれ説明板まで設置されています。

※ぜひ行ってみたいが神社の急な石段を登っては,膝が痛んで大変という方には,鳥居をくぐって自治会館前の石段を登っての正門からの参拝通路以外に,天神池横から水源地展望台に登る市道からの新入路も整備され,社のすぐ裏手に整備された駐車場まで車で来れるようになっていますので,裏道からの参拝・見学もできます。 寛永2年の手水鉢天保7年の燈籠









馬頭観音

馬頭観音小倉氏図版から

 菅原神社の階段に登る広場前=国分寺自治会館前の石燈篭横には,馬や畜生類を救う観音様と言われる,頭に馬の頭を持つお顔が三面の「馬頭観音」が安置されています。刻まれた6本の手の内,合掌された両手以外の四本の手には,剣や棒・斧を持ったお姿が彫られています。確か以前は,市道に面した参道入り口の倶楽部の脇に置かれていましたが,昭和46年(1971年)にこの場所に移設されたものです。
 高さ140㌢程の凝結凝灰岩の御堂に納められた馬頭観音は,明治32年(1899年)の銘があり,建立者には「国分仁才頭」(コクブニセガシラ)として,田頭・西原・井上・臺という郷中の大々先輩達(ひい爺さんの代)のお名前が刻まれています。
 幼き頃は,農耕用の牛が,各農家では飼われ,朝早くから目の前の田んぼの土手では,餌にする草刈りや,夕刻には丸太を引かして道路で牛の調教をする姿がよく見られましたし,最初の自治会館建設(昭和27年=1952年)の際は,青壮年部会が中心となって建設財源確保のために新田神社に鈴かけ馬(シャンシャ馬)踊りを自治会から奉納し,市街地をあちこち回り「お花」を頂き,それを財源にして,中古住宅を購入移設して最初の自治会館を建設。数年前までは,乳牛や肥育牛を飼う方もおられましたが,現在,牛馬肥育ゼロ頭地区となっています。耕運機やトラクターが主体の現代と違い,農耕に欠かせない働き手(仲間)であった牛馬主体の農耕の時代には,牛馬の出生,健康は大切なものだったわけですよね。農耕で疲れうっ血した牛馬の足から血を出す“血出し講”という農耕牛馬に感謝しての大人の宴もありました。
 なお,田起し作業では,むた田(湿田)は,足の長い馬が,むた田でない田は,足の短い牛をとして使い分けた田起しがなされていました。
亡き母から聞いた話=「子供の頃,夜中に馬屋に繋がれている農耕用の馬が異常に騒ぐので,翌朝,何かあったのではと心配して馬屋をのぞいて見たところ,馬のたてがみを,人間業ではできない本当にきれいに編んであり,母親に尋ねると“またガラッパ殿が来て馬に悪戯をしやったもんじゃ”と教えられ,あんな悪戯をするのは,河童しかいない」と,“ピーヒョロロー”と鳴くという河童の存在を本当に信じていました。


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田の神さぁ

石走の田の神さぁ

 ぶっきらぼうな表現が中心の鹿児島弁の中で石像に敬称の「さぁ」(様)が珍しくつき,各集落の田んぼを見渡せる場所に鎮座しておられる農家の神様「田の神さぁ」。田の神像は,鹿児島県独特な民俗信仰の代表です。我が集落の石像は,下台自治会との境界近くの石走島にあります。
 周辺集落の田の神像との違いは,藩政時代の名残なのか「丸十」の紋が刻まれているのが特徴です。お顔の様子は,石材が加工しやすい凝結凝灰岩のため風化していてよく判らなくなっています。なお,田の稲の豊作を見守ってくださっていた田んぼは,今では埋め立てられ住宅が建っています。また,戦前,別の農事小組合であった石走島では,農家持ち回りの小さな像の「田の神さぁ」もありますが,水田耕作者が減った現在,どこのお宅で保管して祭っておられるのでしょうか。
 (鹿児島県内に多数存在する田の神さぁを,正面からではなく裏側に回って見てみますと,性器信仰なのか男性の性器に見えますよ。)
 牛馬と人間の労力中心で農耕機械が発達していない時代,田植えから収穫までを,皆で助け合っていた農村共同体としての収穫を感謝する祝の宴(“さなぼい”)や,田の神さぁ祭りとして「田の神講」がありますが,子供心に田の神像の前で撒かれる小さな餅を拾うのが楽しみでしたし,同講に参加した父が持ち帰る大きな餅の中には,決まって黒砂糖が入っていました。

※昭和30年代には,田植えの時期には子供の手をも借りる必要があったのでしょうか,3日間程小学校が全校お休みになる「田植え休み」がありました。しかし「稲刈り休み」はなかったですね。中学校に進学したら同休みは,どういう訳かなくなっていました。何時までこの休みがあったのかは不明ですが,農家以外の子供たちまで一緒に休みとなり大いに疑問を感じつつ,ヒルに咬まれながら田んぼに出てお手伝いをし,親戚の田んぼまで早苗の植え付けに親の後をついて順次回り,おやつに出る「小麦ダゴ」を美味しく頂いた想い出があります。


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天神池と水神さぁ

天神池の水神さぁ

 自治会区域の東端にある天神池は,字から「京田池」・「芸之尾池」とも言われています。享保14年(1729年)薩摩藩の事業で設けられた溜め池で,現在,池の東部は一部埋め立てられ運動公園や葬斎場・京セラ川内工場に向かうバイパスが通っています。
 中郷の伝説によりますと,一つの郷で三つの池(中郷の上池・下池に加え)を持てば大蛇(竜)が棲むという伝説があったことから,天神池の一部を水引郷に譲ったと言われており,享保14年(1729年)と慶応2年(1866年)の銘が記された2基の水神さぁが建つ水門の所をもって境界にしたと言われていますが,(下東郷村/東水引村=育英地区/可愛地区=鶴峯自治会/国分寺自治会)水神さぁの石碑は,前の位置よりもだいぶ西側に移設されています。
周囲の桜と天神池現在,池は県事業により環境整備がなされ,指定管理者により管理されています。
 なお池中央の噴水は,水中からのガスをかく乱するための施設です。幼き頃は,ハイゴロ・フナ・台湾ドジョウが釣れ,「夕食のおかずを釣ってくっで!」と,午後になると宿題を済ませた?腕白仲間が数多く集まり,食用ガエルの「モーモー」との鳴き声を聞きながら釣り糸を垂れるコミニケーションの場所でもありました。遊泳禁止の池ながら裏側の大人達から見えない場所で隠れて泳いだ池(小学校に入学する前,二つ年長の従兄が“池にはまって死んだ”いたましい想い出のある池では,その後も薬用になる蓮根を,子供たちが小遣い稼ぎのために潜って取っていた時期もありました)で,隔年おきに秋には池干しが行われ,大きなコイやフナを大人たちが三角テゴを使って捕獲していましたが,近年は,誰が放魚したのかブラックバスの住む池に変化し,また池を覆う菱も葉が枯れた時期には,茶褐色に変色し,見苦しいとの意見が寄せられ,数年おきに撤去してもらっています。
 池の水が水門を通りボコボコと噴出する南側の場所(現在は,葬斎業者の駐車場の片隅)では,昔は障子紙を水に浸けて剥がしたり,赤シソ等の野菜を洗う場所として,郷中の叔母さん達に利用されていましたし,池と市道,計志加利墓地(以前,市給食センターが建っていた)の下に広がる中郷田んぼに通じる農道を挟んだ南側の京田田んぼの堤急斜面(現在,埋め立てられハートフル紫雲閣の西側駐車場になっています)は,子供たちがお尻にダンボール紙をしいて草スキーを楽しむ場所でした。
慶応2年の水神享保14年の水天







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国分寺(江戸時代)の住僧墓

住僧墓(市営墓地)

 江戸時代に再建され『三國名勝圖會』に描かれている護国山威徳院国分寺の住職の墓は,以前は3班内の天神馬場通りから東に20㍍程入った茶園の脇(下台自治会との境)に建っていましたが,平成15年(2003年)市営墓地のある芸之尾の水源地展望台駐車場近くに,何かの理由(現状保存が原則なのに?)があったのでしょう,市教委により移設されています。
 お墓は,頭に仏さまを表す梵字の「アン」(普賢菩薩)が一尊種子で刻字され,僧位・僧官に次いで住職名が次のように刻まれています。「法印安秀」維時正徳6丙申夏5月20日示寂(1716年),「法印寿安大和尚位」干時元文3戊午止ミ10月3日(1738年),「大法師正善房覚彦」延享2乙丑天9月19日(1745年),「法印安純霊位」宝暦11辛已(1761年),「法印権大僧都種峯大和尚位」安永5丙申7月晦日(1776年)と逝去された年号が刻まれた5人のお墓です。僧位・僧官からは,非常に位の高い住職のお墓であったことが推測されます。創建が寛文9年(1669年)~廃寺が慶応3年(1867年)の198年間に5人の住職墓では少ないのでは? 他の住職のお墓は何処に? お墓から歴史のミステリーに挑んでみませんか。
 今度,水源地展望台に登られたら写真でお判りのとおり,市営墓地の一番駐車場側ですので覗いてみてください。市営墓地内には,戦後の戦災復興都市計画事業で無縁墓となった墓石が置かれていますが,古いお墓も混じっていますよ。「お墓史」(墓碑史)という研究者の少ない学問もありますので,ぜひあなたも挑戦してみませんか。
◆霊界人口では超過密の国分寺自治会=国分寺自治会の区域内には,市営墓地以外に石走墓地・杉山墓地,キリスト教会墓地,そして旧火葬場・現葬斎場があり,薩摩川内市から霊界に旅立ちされた者の数をカウントすると既にウン万人になる超過密都市の入り口になります。こんな不謹慎・不浄で奇想天外な考えを持つのは,私一人だけなのでしょうか?

<我が郷中の隠れた薩摩川内市の桜鑑賞スポット6>

天神池水源地展望台市営墓地市営墓地手前のキリスト教会墓地旧火葬場跡(国分寺公園)やすらぎ苑  我が自治会の一番東側の班組織である1班内から高台の17班の水源地に登る市道脇に植えられている天神池の桜は,樹齢60年近くを迎えた老桜で伸びた枝に咲く桜花は湖畔に映え,駐車場脇に設けられた東屋で花見弁当を広げながら観賞できます。
 自治会内では一番高い17班内の水源地展望台の桜(海抜63.5㍍)=昭和30年代までは水源地の桜が満開を迎えると,郷中の花見会場として賑わい,太鼓・三味線の音が里まで賑やかに聞こえてき,20年近く前までは,旧川内市の花見スポットとして花見の季節には,提灯の飾り着けもなされていましたけど,今は何の飾り付けもなされず,忘却の彼方に。それでも家族連れがお弁当を広げている姿が今桜満開季も見られました。(現在では,中郷の上池公園や新田神社参道,寺山の桜が名所に。)展望台に登り,東側の寺山側に目を振ると,満開の桜を目前に眺められ,その視線の先を九州新幹線が走行する様子も眺められ子供達には喜ばれるスポットで,駐車場の一角に,平成29年4月には,新しいトイレも整備されています。
 水源地の西側斜面に設けられ16班と17班に跨る市営墓地にも桜が植栽されており,展望台の駐車場からの眺めも良いが,下から眺めたい方は,市営墓地に設けられた通路を下って眺めるか,16班の市道側から進入すれば春の青空に咲く桜花の仰角鑑賞が可能ですし,この市道の脇から30m入った所にあるキリスト教会の墓地にも桜が植栽されています。
雄のきれいなキジが一帯を縄張りに生息 なお,後牟田自治会との境界手前の市道から20m入った所にある旧火葬場(現「やすらぎ苑」完成までの昭和59年度まで供用されていた)跡地に,地元対策の名目で整備されている,ゲートボール場の国分寺公園(自治会名称を冠に着けた都市公園で,国指定史跡薩摩国分寺跡史跡公園とは別)の桜は,植えられている場所が場所だけに,ゲートボールを含め今では誰も訪れる方がおられない遊休施設ですが,東屋やトイレも整備されており,一人静かに桜を鑑賞したい方には,薩摩川内市ではナンバー1の隠れ桜観賞スポットとしてお薦めの場所で,運が良ければきれいな雄のキジに出会う可能性もありますよ。

 最後にお薦めの隠れスポットは,天神池東側の消防庁舎先を京セラ方向に200㍍進み,新幹線の高架下を西側に入る現火葬場やすらぎ苑の南斜面に植えられている桜は,開花の時期に縁者を荼毘にふすためにちょうど訪れた方にしか鑑賞できない桜の鑑賞スポットでは。市営墓地下の市道から分かれた農道がやすらぎ苑までは通じているのですが,山の段々畑を耕しからいもを植えていた農地は,今は誰一人耕作する者がおらず,荷車が通行していた農道も今では藪で完全に覆われ通行できない状態になってしまっています。
上写真:左から天神池・水源地展望台・市営墓地・キリスト教会墓地・国分寺公園/前の火葬場跡・やすらぎ苑の満開の桜)

国分寺層塔

国分寺層塔

 天神様と天神馬場通りが接する左角地の檜や竹藪の繁った空き地(現3班内)に,宅地造成されるまで建っており郷中の故Oさんが芝花を生けていた市指定文化財の石塔は,現在,国指定史跡薩摩国分寺跡公園の見学コースから外れた東北端のくぼ地に移設され保存されています。伝承によると明治末期に先の土地の所有者I医師の祖父が国分寺跡から移設されたものだったようです。今回,宅地造成分譲に伴い,元あった場所の近くに戻されたと理解してください。
 石質は,水源地に近い天神様の裏側=芸之尾の岡から出る赤茶色のもろい凝結凝灰岩で,仏さまのお姿は風化しており判読が難しく彫られた年代は不明です。2層から3層の4基の層塔の高さは,完全に復元すると2㍍~3㍍に近い高さの塔で,4面に仏像が彫られています。

 天平13年(741年)聖武天皇の詔により,各国ごとに設置が命じられた国分寺伽藍内の層塔は,七重の塔。しかし,薩摩国分寺の層塔は,塔基壇の発掘調査により出土した瓦等遺物の量から,現存する塔芯礎のほぞ穴の径,周りの四点柱礎の配置等から推察しても,また当時の薩摩国の経済力(肥後国の財政援助を受けて薩摩国分寺は建立)からしても(台風常襲地帯の中で木造の高層の塔は)建設は難しく,私見ではありますが三重の塔が限界だったのではないでしょうか。
※歴史資料館に展示されています薩摩国分寺の復元伽藍レプリカでは,国分寺建立の聖武天皇の詔勅を大切にし,我が国に現存しない国分寺七重の塔を復元したらとの専門家の先生方からの,夢のある塔をとして七重の塔が復元展示されているという経緯があります。
※昭和60年に開園した国指定史跡薩摩国分寺跡史跡公園(昭和43年に県教委の発掘調査が,昭和53年から市教委の環境整備事業がスタート)内の塔基壇にある凹みのある中心礎石は,塔跡だけが国指定史跡になる昭和19年以前に,一時大小路町にある浄土真宗本願寺派了忍寺の手洗い鉢として持ち出されていた時期があり,お寺さんで手洗い鉢として利用されていた時の凹みのある中心礎石の写真が発見された際は,新聞でも大きく報じられましたし,下台の皆さんんが牛車で元の場所に戻した時の戦前の記念写真が下台自治会館内に掲示されており,ずーっとあの場所にあったわけではありません。
 また,本自治会区域内を縦断し天大橋~京セラ川内工場に通じる都市計画道路「隈之城高城線」が,下台の国道267号・国分寺跡公園南側までと後牟田までは整備されながら,その後,下台・国分寺自治会区域内は遅々として工事が進まないのは,国府・国分寺という大切な史跡の存在を無視した昭和44年の路線計画であり,この路線計画を阻止すべく,昭和46年に市役所に入所し市教委に務めた昭和47年から地元の皆さんに足元に眠る物を言えない史跡の大切さを説明し,全面発掘調査・環境整備事業・路線計画変更発掘調査の実施展開をと,在職時代には行政内でも抵抗して現在に至っており,天神池脇を通るバイパス路線が完成した現在,自治会内を分断する同路線の整備が必要なのか皆さんもお考えください。

国分寺層塔











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薩摩国府跡

薩摩国府跡

  薩摩国府の設置は,『続日本記』の記述から大宝2年(702年)といわれています。薩摩国分寺の西側に隣接する6町四方(5.95㌶=風口・国分寺・国府・下台の4自治会の区域にまたがる)の区域が薩摩国府の跡であったことが,昭和39年(1964年)~昭和42年(1967年)の発掘調査により判明しました。(発掘調査以前は,上川内駅東側の屋形が原(本城)にあったという説があり,藩政時代の参勤交代道路脇のシラス山が,昭和50年代に宅造で切り崩されるまでは「聖蹟之碑」が建っていました。同所からは須恵器の骨蔵器だけが出土)
※なお,この発掘調査は,「石が埋まっているのでは? ゴボウが等間隔で曲がる!」という19班の西原トキさんの証言を契機にスタートしたものです。
 薩摩国府跡の範囲は,御陵下町と国分寺町の町名の境界となっている川内高校の東端(プールの横)から旧火葬場の方向に南北に伸びる市道を中軸線とし(東西に各3町=327㍍),風口公民館から元川一酒店の前を通り天神様の下に東西に伸びる市道よりも北側に更に1町(109㍍)伸びた区域であったことが出土した遺物等により確認されています。
  律令時代の薩摩国の政務を司る政庁(国衙)は,字大園と石走の方2町の区域であったことが,出土した墨書土器等で確認されており,字杉山・字石走島・字西原・字兵庫原からは,国府に関連する施設の跡が。
 私の小菜園は,字入来原にありますが,耕作の際,-50㌢以上深掘すると,土師器・須恵器・白磁・青磁等の破片が数多く(瓦片は少ない)出土してきます。
大園から出土した墨書戯画※出土遺物は,歴史資料館に展示。右の写真は,胸をあらわにした女官が鈴を持って舞っている「墨書戯画」です。この土器は,私が大学1年生の冬休みの字大園(現10班の中野特殊工業の建物が建っているカ所)の鹿県考古学会主催の薩摩国府跡発掘調査(右下白黒写真2点)の時に発見されたもので,現在,市の歴史資料館の入り口や2階の展示ケースの中にレプリカが展示されています。発見の初報は,出土した土器を現場脇で水で洗ってくれていた川高郷土史研究クラブの一級後輩の女子生徒が「あらー! エッチな絵が出てきた」と顔を赤く染め発したM女史の大きな叫び声でした。
昭和43年12月冬休みを利用しての鹿県考古学会主催の薩摩国府跡の発掘調査大学1年生で鹿県考古学会主催の薩摩国府跡発掘調査に参加した昭和43年12月の時の若きロードマン
条里制=律令時代の土地区画制度で,1辺1町(約109㍍)の四角形に区切った“里”を基に,里を東西に最大六町(約654㍍)の四方形に連ねたものを“条”と呼んでいました。里をさらに一町四方に区画したのを“坪”と呼んでおり,市内には川内地区の「宮里」,隈之城地区に「坪塚」という地名でその名残が。
  


かごしま古散歩記事/南日本新聞かごしま古散歩記事/南日本新聞『ふるさと薩摩川内学』の中での小中学生への薩摩国府紹介記事



かごしま古散歩記事/南日本新聞



















新元号『令和』を梅花の宴で詠んだ薩摩国府役人高氏海人











新元号『令和』を梅花の宴で詠んだ薩摩国府役人高氏海人を紹介した『広報さつませんだい』















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万葉集の編者・大伴家持もこの地に

大伴家持

 征隼人持節大将軍として隼人族の反乱を鎮圧した大伴旅人の子で天平宝字3年(759年)に我が国に現存する最古の和歌集「万葉集」を編纂した大伴家持は,5年後の天平宝治8年(764年)1月21日,前年に起きた恵美押勝暗殺事件に連座し,信部大輔という職を解かれ京外追放処分にあい薩摩守に左遷。翌年2月には大宰少弐に任ぜられて職を解かれていますが,1年間は薩摩国(中国)の最高責任者・薩摩守として国府のあった此処に赴任。※景雲元年(767年)8月29日までの3年半余という説もあります。
 家持の国守赴任は,越中・因幡に次いで薩摩は3回目で47歳の年。都からあまりにも離れた左遷先だったからでしょうか,それとも父・旅人が平定したとはいえ,まだまだ中央の律令制に馴染まない隼人族の懐柔政策の実施に何かと多忙だったからでしょうか,一句も後世に残る詩を詠んでいないのは誠に残念なことです。
 なお,彼の赴任時にあった鹿児島からの天地異変に関しては,平安時代初期に編纂された勅撰史書『続日本記』天平宝治8年(764年)12月の条に海底火山の噴火の様子を
『是の月、西方に声有り。雷(いかづち)に似て雷にあらず。時に大隅薩摩の両国の堺に当りて、煙雲晦冥(くわいめい)して奔電去来す。七日の後、乃ち天(そら)晴る。鹿児嶋信尓(しなに)村の海に沙石(させき)自(おのずか)ら聚(あつ)まり、化して三つの嶋と成る。炎気露見すること、冶鋳(やじゆ)の為(しはざ)の如くなること有り。形勢相連なり、望めば四阿(あづまや)の屋に似たり。嶋の為に埋めらるるは、民家六十二区、口(く)八十餘人。』(大隅・薩摩の境で大噴火があり,三つの島が誕生。民家62戸に被害が発生し80人近くが埋まった)と奏上文により朝廷に報告しています。
 しかし,父親:旅人は我がご先祖である隼人族の中央集権国家への反乱鎮圧の責任者=征持節大将軍,息子:家持は治世責任者=薩摩守という律令政権初期の歴史に翻弄されながらも,万葉集の歌人二人が,この地にお越しになられたという事実に関しては,何か不思議なご縁を感じさせられますよね。さて,今,あなたが向かおうとしているご近所のKさん宅への道,もしかしたら大伴家持が通った道かもしれませんよ。

かごしま古散歩記事/南日本新聞

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太平洋戦争遺産の“特殊地下壕”
防空壕内部から入口を見る

 終戦から70年以上が経過し,先の大戦(太平洋戦争)の体験者も少なくなりつつありますが,市の防災マップに掲載の防空壕として,本自治会区域内に残る先の太平洋戦争の戦争遺産としては,鴨ケ迫の山林内に特殊地下壕(防空壕)が記されてます。
封鎖される前の防空壕の入口 米軍の空襲から身を守るために,北側のシラスの山に手作業で横穴を掘り空襲被害から難を逃れるために数家族が身を隠した特殊地下壕が,15班内の鴨カ迫に掘られていました。
 幼き頃は山学校のついでに探検ゴッコで壕の中に入りますと,天井には足の長い虫“ゲジゲジ”が生息しており,この虫が出す汁が頭に付着すると禿ると先輩の悪童達から聞かされたものでした。
 なお,我が家の墓地は,杉山の共同墓地先の同壕のすぐ近くにあり,昭和31年(1956)妹が死んだ際,お棺を埋める(当時は土葬が中心)縦穴と,防空壕として戦前掘られた横穴との距離関係を,近所のオジサン達(お寺さんの門徒で結成された死人郷中)に,父がお墓の下までは掘られていないかを確認したのを覚えています。
 昭和30年代後半からの宅地造成で,近辺のシラス山に掘られていた特殊地下壕も削り取られ,姿を消しましたが,本自治会区域内に掘られたのが残っていたのは,迫地に面し住宅地には向かない場所に掘られていたので,開発から逃れ保存されていたもので,入口は3カ所設けられ,入口は狭いものの,内部は天井までの高さは1.5㍍,奥行き8㍍からあり,その内の1カ所の壕は奥で繋がっていました。
閉鎖された防空壕   本自治会内に唯一残っていた戦争遺産としての特殊地下壕も,防災上の観点から平成23年5月に,市の「地下壕緊急対策促進事業」で,入口がブロック積みで閉鎖され,現在,中には入れないようになってしまいました。
 70代後半の先輩の証言によると,本自治会内には,この他に16班のSO宅先と2カ所の防空壕があり,家の前に掘った避難壕以外に,大きな空襲の際は,家人に連れられて山側に掘られた2カ所の防空壕に避難していたが,鴨カ迫の防空壕の方が,子供心にも大きく,当時は後牟田自治会も一緒の自治会だったので,後牟田の人も一緒に壕内に避難していたそうです。
 北朝鮮の核ミサイル開発で地下シェルター設置の必要性がささやかれていますが,いざとなったらまた閉鎖された防空壕を再利用したり,新たな壕を掘る必要性が求められるのではと危惧しています。


 母からは,旧軍のパラシュート等を製作していた人絹会社(現:中越パッケージ㈱=本城)や北海道出身者の陸軍の部隊が駐屯していた川内中学校校舎(現:川内高校)を狙った米軍艦載機が,日本軍の高射砲にあたり墜落し,遺体の米軍兵士のベルトを風口のAMが持って来て見せてくれた。戦後,進駐軍が米軍兵士の遺体を収容に来た。川内中学校に駐屯していた陸軍部隊に向けての,米軍グラマン機の飛行士の顔が見える超低空飛行でのバリバリという射撃音は凄かったとの話を聞かされました。因みに横須賀から長女の病死とミッドウェイ海戦の敗戦を機に疎開先として次女と長兄の二人を連れ,実家の風口に避難していた母は,空襲警報が鳴るたびに,瀬戸口の防空壕ではなく,実家の隠居前に掘った雨戸でカモフラージュした竪穴に子供達と避難していたそうです。

※余談ですが,海兵57期卒の職業軍人であった父は,水雷屋で,昭和16年の太平洋戦争開戦時は,大尉で駆逐艦松風艦長として南西諸島での米英軍の搖動作戦に参加。しかし終戦直前には,乗る艦船も沈められ,最終的には沖縄を占領した米軍が,志布志湾or吹上浜に上陸が予想されるとして,郷土防衛の任にあたるため,予科練の7ツボタンの歌で有名な土浦海軍航空隊教官兼分隊長から昭和20年6月には,梅崎春生(福岡市出身:大正4年~昭和40年。徴兵を受け暗号兵として終戦を鹿児島で迎える。第一次戦後派作家の一人)の処女作『桜島』(昭和21年発表)の舞台となった桜島の袴腰にあった第五特攻戦隊司令部(司令/駒沢克己少将)の水雷参謀(中佐)として最後の軍務に従事し,海兵同期が5・15事件に連座し処分されたりミッドウェイ海戦で多数戦死する中,昭和46年まで生き残り(62歳で病死)ましたが,従軍した戦争に関しては一切寡黙で語ってくれませんでした。
友情の刀の返還を報じるポーツマスヘラルド紙 なお,錦江湾に戦勝国として戦後処理を執行するため終戦の2カ月後入港した,米軍駆逐艦「マーカブ」艦長のアルバート・プロッサー大佐から,没収?されていた父の軍刀(刃渡り72.4㌢ 銘:越前住兼継・以南蛮鉄作之=江戸物)が,平成4年(1992年)1月31日,日露講和条約締結時の外務大臣/小村寿太郎の故郷=宮崎県日南市の皆さんの橋渡しで,日米海軍軍人の「友情の証」として,米国ニューハンプシャー州ポーツマスで返還されました。(■右写真=返還式典を報じる1992年2月1日土曜日の地元紙=ポーツマスヘラルド紙の一面)
 返還された軍刀を我が国に持ち帰るに当たり,事前に成田署には,当時勤務していた市歴史資料館の館長(博物館学芸員)の肩書で,学術資料としての国内持ち込みの連絡を入れておいたのですが,成田空港税関では,銃刀法持ち込み違反容疑で黄色のランプが点灯され,税関職員に両脇を抱えられ別室に連行され,周囲を慌てさせた貴重な体験や,返還式場でプロッサー大佐が鹿児島に進駐した際,焼け野が原の鹿児島市内で撮影された少女をマスコミの協力を得て探し出し,1996年(平成8年)10月9日に鹿児島市内在住の同女性とプロッサー大佐宅を訪問したことは,今でも良き思い出に。

第5特攻戦隊幕僚名簿


☆参考文献:三國名勝圖會,川内市史上巻,川内市史石塔編,川内市文化財要覧,川内の古寺院,川内の神社祠,よみがえる古代Ⅱ-薩摩の中心・川内-,薩摩川内市小中一貫教育読本/ふるさと薩摩川内学

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付録:国分寺自治会区域内の字(あざ)

 国分寺自治会内の字(あざ)は,薩摩国府の発掘調査が最初に行われた①『入来原』(イギッバイ),田の神さぁのある②『石走島』(イッバシィジマ),旧火葬場南側台地の③『上原』,出土遺物等から薩摩国府の中心施設があったと推察される場所の④『大園』,渡り鳥の鴨が飛来していたからついたのでしょう⑤『鴨ケ迫』,我が畑の前の⑥『栗野ケ迫』(クレザコ),水源地展望台や市営墓地のある⑦『芸之尾』,江戸時代に再建された国分寺のあった自治会館の建っている⑧『国分』⑨『下原』,菅原神社のある⑩『杉山』(スッギャマ),「西原」は「尼寺」(ニジ)のなまったものではとして未発見の薩摩国分尼寺(ニジ)の候補地にもあがっている⑪『西原』⑫『中田』,国府に併設されていた軍団の兵器庫があったのではと思慮される字の⑬『兵庫原』(ヒョウゴバル)⑭『前田』⑮『山下原』の15字からなっています。

 なお,戦前は,現在の東大小路町の『下目』=川内川右岸天大橋の付け根付近の集落=と対峙する『上目』(オワメ)という名で呼ばれていました。(川内川の堤防未整備の戦前は,川内川が氾濫すると,下目の水稲は全滅して食うものがなくなり困るので,高台で水害の心配のない上目に,下目の農家は畑を求め陸稲を作っておられ,その名残として私の周囲には下目の人の土地が残っています。)
 また,近年他から来て家を建てた方から「その地名は何処」と,地元住民同士の会話の中で私たちが使う地名で首を傾げられるのが,『ウエゴ』・『イネンクッ』・『テンジンババ』,そして,悪ガキ仲間達がよく叱られた今は亡き伯父さん名前を付けての『〇〇爺ゲェーのイートグッ』(〇〇叔父さんの家の入口)という,60代以上の地ごろにしか理解できない特定の場所を指した呼称が少し残っています。

【自治会名称の変遷】
 自治会は,戦前の農事小組合にまで歴史はさかのぼりますが,戦前,爺さんたちのささいないさかいで分かれ2組織となっていた国分・石走島農事小組合は昭和26年(1951年)に合併し「国分農事小組合」となり,昭和29年(1954年)に行政指導を受け,組織名称を「国分公民会」に改称。昭和30年代早々に後牟田を分離し現在の区域に。
揮ごうのある木箱2代目となる現在の国分寺自治会館建物  戦後,GHQ(進駐軍司令部)の解体指令を受け財産権を有することができなかった地縁団体も地方自治法改正で『認可地縁団体』として市へ認可申請すれば,自治会の有する土地・建物を登記できる組織=法人格を有する組織へと「国分公民会の法人化検討委員会」で規約等に関し慎重協議される中,周辺5自治会との区域確認をもいただき,望ましい21世紀の自治会像を目指した,現規約の基調案文が平成13年1月に答申され,同年3月の総会で満場一致で承認され,平成13年(2001年)4月から区域内町名(国分寺町・御陵下町)から名称を「国分寺公民会」(電話口でコクブと発言してもコクフと聞き間違いされることが多々あり「国分」に寺を加え「国分寺」)に。そして平成の大合併での薩摩川内市誕生(平成16年10月12日)に伴い,行政からの市域内自治会組織等の名称統一指導(公民会・公民館・町内会・部落)要請を受け平成17年(2005年)4月から「国分寺自治会」に改称すると同時に,集会施設の名称も社会教育法第21条の適用を受けるような紛らわしい「公民館」から,他に先駆け「自治会館」に改称しました。
※薩摩川内市内には,570の自治会があり,可愛地区コミュニティ内には,34の自治会が。会員数は,可愛地区コミュニティ内では,一番大きな世帯数ですが,薩摩川内市内では,喜入(平佐西)・中ノ原(平佐西)・田崎(平佐西)・鶴峯(育英)・隈之城(隈之城)・宮崎(隈之城)・寄待(平佐西)に次いで8番目の会員世帯数の自治会となっています。
 なお,自治会館内には戦前の女性達の活動の名残のある「贈 昭和7年(1932年)10月1日 国分婦人会」と揮ごうのある木箱(右上写真)と,「川内町国分婦人会」という旗が保存されていましたが,自治会館の耐震補強第1期工事の完成に合わせ,平成27年12月26日の保存文書等整理作業の際,本自治会で保存しておくよりも,薩摩川内市の女性活動の貴重な歴史資料となればと,資料整理に参集された役員の皆さんの賛同を得て,市歴史資料館に寄贈しました。
(市教委からの寄贈資料受領証は,平成29年2月24日に受領し現自治会長に)
※自治会活動に関心をお持ちの方のために,国分寺自治会規約国分寺自治会自主防災会規約・防災計画+自治会長を務めた平成23年度の国分寺自治会の主要行事を参考までに添付いたします。

【国分寺自治会の神社境内・自治会館を利活用した活動状況】

女性部のクッキング教室神社境内を利用して自主防災会の防災訓練天神馬場通りでの子供綱引き神社境内での夏休みラジオ体操夏祭り六月灯月2開のリサイクル回収3月には自治会の総会を






いきいきサロンでゲームを楽しむ高齢者高齢者の茶飲ん場に自治会館を境内での肺がん検診受付の様子境内に設けられた燃やせるゴミの集荷所20人の班長を集めての班長会自治会館改修調査特委の様子普通救命講習会の様子





 先代が昔から『上目』に住む“ぢごろ”の末裔と,他所からの転入者“よそもん”との割合が,4:6の混住自治会員で構成されています当自治会では,自治会長職が地ごろ間でたらい回しとなり閉鎖的自治会運営となることなく,広くやる気のある方からの刺激を受け,正副会長間の事務引継がスムーズに運ばれるようにとして,平成18年度からは前年度に1年間,副会長(会計兼務)として会長の職務を補佐しながら自治会運営の経験を踏み,十分会員に顔なじみとなった後に,自治会長職を1年間務めるようにしています。平成23年度,元広報マンの経験を活かし,カメラ片手に“ごじゅ”(=郷中,集落)の話題・活動を取材して回り,月末に『国分寺自治会だより』として編集して1年間発刊いたしました。自治会長職の想い出として会員の個人情報だけは〇〇として隠す形で再編したものを掲載いたしましたのでご笑覧ください。

4月号5月号6月号7月号8月号9月号10月号11月号12月号1月号2月号3月号






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学生時代にも発掘調査に参加した,薩摩国分寺跡出土の創建時の軒丸瓦(『複弁八葉蓮華紋軒丸瓦』※創建時財政援助を受けた隣国・肥後国/肥後国分寺の創建時のひびが入った瓦版をそのまま拝借し,複弁の中に単弁が一葉(9時方向に)混じっているのが特徴)と,軒平瓦(『編行唐草紋軒平瓦』※豊前国分寺の瓦版と酷似しており,豊前国人の移住との歴史的関係を示しています。三角のサメの歯状の鋸歯文は,魔除け文様に)の拓本です。
 亡き母の百か日法要に合わせ平成25年2月の我が家の墓碑改修時には,石材店に無理を言い,墓碑裏の改修記に考古学徒への道を許してくれた亡き両親への感謝を込め,この瓦の文様を彫り込んでもらいました。

                        (ロードマンがアマチュア無線局=3アマ:JE6SSYとして薩摩国からの電波送受信の証として使用していた頃のQSLカード=交信証から)

『我が郷中の歴史散策』を,最後までお読み頂き感謝します。ここに掲載いたしました国分寺自治会内の史跡に関し,案内・説明を希望される方は,ロードマンまで★ で日時等事前にお知らせくだされば,何時でも喜んでご案内申し上げます。但し,カライモ標準語での説明しかできませんのでご容赦ください。

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